『東京迷路』 鬼海弘雄 1999年 小学館
優れた作家は「主観」と「客観」の両方を持っている。
自分の想いをカメラで綴っていく行為は、限りなく主観だ。
だが、一旦作家の手を離れた作品群は、限りなく客観性を有している。
この客観性が、私たち見る者を招き入れてくれるのだ。
鬼海弘雄の写真を見るたびに、ワタシはいつも素直に招き入れられる。
そして、一見淡々と撮られたように見える写真の中に
作家の「主観」が、満ち溢れていることを知る。
『東京迷路』に、人は一切出てこない。
”空間のポートレート”と自ら称しているように
そこには生活の痕跡を残した、東京の街角があるのみだ。
場所と撮影年を記しただけで、余計な言葉も一切ない。
だが確実に、作家がそこに立ち、
愛しむようにシャッターを切り、
想いを込めてプリントしている姿が、ひしひしと伝わってくる。
そこにあるのは、限りなく「主観」だった。
『東京迷路』は鬼海弘雄の世界だ。
だが、私たちはそこに感情移入する。
それは、”自我”という「主観」で創られたものを
「共通化」して、「普遍」にする言語を、作家が持っているということだ。
「主観」=”思い入れ”と言っていいかもしれない=が表に出過ぎているものは、
作家自身の”自我”が壁となって、私たち見る者を拒む。
「客観」を主にして作られたものは
多くの者の共通項を突きはするが、何も残らない。
作品に「客観性」を与えるということは、
外世界に向かって扉を開くことであり
私たち見る者はそこで初めて
その作品世界と繋がることが出来るのだ。
「主観」で創られたものに
「客観」の眼差しを与える。
優れた作家は皆、この眼=言語を持っている
と、ワタシは思っている。
ps:親愛なる○○○に捧ぐ
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「外世界」の何処と、どう繋がるのか・・・。極・私的な「内世界」のお話です。
by norazin
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